2色のガーベラ 夫婦別姓資料館
夫婦別姓議論ではよく「アイデンティティ」も話題になります。このアイデンティティとは、公的な身元確認と、個人的な自己認識としての2通りの視点があります。外からの識別と内なる認識です。アイデンティティは英語の意味が示すとおり、重要になるのは「同一性」です。夫婦別姓が法制化されないことで自己同一性に問題を生じさせています。

アイデンティティについては、日本弁護士連合会が1993年10月29日に発表した選択的夫婦別氏制導入及び離婚給付制度見直しに関する決議でも触れています。特に、最高裁判所1988年2月16日判決によると、「氏名は、個の表象であり、個人の人格の重要な一部であって、憲法13条で保障する人格権の一内容を構成する」と興味深い記述があります。

社会生活上の身元確認としてのアイデンティティ

社会生活上で公的書類に記載された氏名を示すことで、身元確認する場面がしばしば生じます。例えば銀行口座を開く時とか、公的試験を受験をする時とかです。こちらは公的書類との同一性です。

身元確認時に使われるのが、身分証明書です。具体的には免許証、パスポート、保険証、住基カード等々です。これらは公的機関が発行したものなので、そこに記された氏名が公的書類と同じ氏名であると確認されます。英語圏だとそうした身分証明書はIDと言います。免許証や入館証などのカードはID カードとも言われ、身元確認を示すidentificationやidentityから来ています。

こうした身元確認で示す名前は公的書類に記載された氏名です。普段よく使う名前でも、知られている名前でも、旧姓でもありません。仕事をしていると身元確認をする場面は多く発生します。金銭の授受、資格や免許などの証明書、土地や会社などの登記、海外渡航の入出国審査などで、公的な氏名と照合します。

身元確認で大事なことは公的書類との同一性です。通称に限界があるのはまさにここです。通称は本名ではないのです。どんなにいろんな場面で旧姓を使用できるようにしても、通称は本名ではないから本名と照合する場面では役に立ちません。

最近では海外渡航やオンライン販売も普及し、カードで決済することも日常的になりつつあります。カードは公的書類と一致する本名である必要がありますから、通称が使えません。他にもセキュリティが重視されるようになりつつある昨今、身元確認が厳密になりつつあります。

人生哲学上の自己認識としてのアイデンティティ

法制度とは直接関係のない範囲のようにみえながら、当事者の意識や情緒も軽視できない問題です。こちらは自己認識との同一性です。

婚姻を成立させるために、いずれかが結婚改姓を強いられています。そのため、どちらかが、公的な苗字を変更しなくてはなりません。そうなると、普段から呼ばれる名前も変わります。旧姓で呼ぶようにとお願いすればいいのですが、どんな場面でもというわけにはいきません。公的書類が変更されれば、公的な場面では認識される名前が変わります。

それは個人の自己認識にもじわり、じわりと関係してきます。自己認識とは自己との対峙で形成されていくものではありますが、内部的なものだけではありません。外部的、つまり社会との関わり合いも関係してきます。自己認識とは自分の意識と外部からの認識、両方の反復でその正当性を再確認していくものです。

子供の頃は親や周囲に名前を呼ばれて、自己が誰であるか認識していきます。そしてより深く自分を見つめていき、社会的な識別名以上のなにかを自分に見出していきます。自分を認識する名前と社会から呼ばれる名前が同一であるうちは問題ありません。自己認識の象徴である氏名を、結婚改姓により変更しても本人の認識が追いつかないことがあります。その違和感はじわじわと本人を痛めつけるのです。

その違和感の量や質は、短期的なマリッジブルーから克服困難な苦痛まで様々です。そうした違和感に悩む人間に対して、婚姻という自分の人生選択を受け容れられていない未熟さとして短絡的に批判したり、愛情のなさの指標と断じる声もあります。しかしそう単純な問題ではありません。苦痛が許容量以上になることもあります。それは不便の量と本人の繊細さにもよると思います。

人生経験を積み重ねるごとに、それぞれの人生哲学や自己認識が深く心に刻まれていくものです。人によっては名前と自己認識が密接に関連性を持つこともあります。例えば何かを創造するような職業では、成果物に自己の名前がつきます。自己の努力の結晶は自己の存在意義と重なってきます。だからこそ、ある程度、仕事の成果が蓄積されてくると、氏名を変更することに躊躇する人が増えてくるのです。書類上の実害とはまた別に、こうした理由で精神的・心理的な苦痛を生じることもあるのです。

こうした苦痛は実害を証明するのは難しいのですが、夫婦別姓を求める原動力のひとつであることは確かです。夫婦別姓が認められないという現状からは、個人が尊重されないという社会の側面が浮き彫りになってきます。

そうはいっても人生哲学を中心に法改正を議論するのは困難です。そのため法改正の議論で勘案すべきなのは苦痛の限界量がどこかよりも、現実的な不都合からくる必然性ではないでしょうか。本当に社会が婚姻関係を認めるのに同氏でなくてはならないのか、です。

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